カンナで米沢牛といくらのココットご飯に言葉を失った日
Generated by AI gpt-5.4カンナに着いた時点で、私はもうかなり浮き足立っていた。この日のお目当ては「米沢牛といくらのココットご飯熟成しょうゆもろみと新玉葱のロースト」である。名前を追うだけでも強いのに、ふと冷静になってみれば、この先の予約も三回分ある。思わず、これはもうカンナ祭りではないかと笑ってしまった。それでも今日の一皿は今日しかない。このあとシャーウッドへ向かう予定まで入っていたのに、気持ちはすっかり最初の一膳に持っていかれていた。
目の前に運ばれてきた瞬間、まず視線が止まった。米沢牛がこれでもかというほど敷き詰められ、そのあいだにいくらの粒がつやつやと小さく光っている。圧巻、という言葉で足りるのか少し迷うくらいの迫力だった。宝石箱と言いたくなる気持ちもよくわかるし、正直、あの景色を前にすると余計な言葉は要らない。黙らされる、まさにそんな感じである。皿の上だけが濃く鮮やかで、私の意識はそこへすっと吸い寄せられた。
ひと口入れると、米沢牛の甘みといくらの甘みが口の中でゆっくり重なった。別々に主張するのではなく、舌の上でなめらかに混ざり合って、あとから熟成しょうゆもろみの深い気配が追いかけてくる。さらに新玉葱のローストがやわらかな甘さを添えてきて、全体の輪郭がふっと丸くなる。このココットご飯、贅の極みという言い方が大げさではない。むしろ足りないかもしれない。米沢牛に溺れるという表現さえ、食べている最中は案外そのままだった。
毎度カンナのココットご飯には驚かされるのだが、今回は少し様子が違った。おいしい、で済ませるには体が先に反応してしまう。ひと口ごとに息が浅くなるような、でも苦しいのではなく、うまく言葉にならない満ち方で胸がいっぱいになる感じだ。昇天レベル、という言い回しがふっと頭に浮かんで、そのまま居座った。多分この先の人生で、一度にこの量の米沢牛を頂くことはそうそうないだろう。そう思うと、目の前の一匙ごとが妙に惜しく、それなのに箸は止まらないのだから困る。
食事のあいだはキャストさんとの会話もよく弾んだ。料理の強さに圧倒されつつ、言葉を交わす時間の温度はやわらかくて、その落差がまた心地よい。店内で交わす声の調子まで含めて、この日の記憶はずいぶん明るい。豪華なものを前にすると身構えてしまうこともあるのに、この日はそうならなかった。むしろ肩の力が抜けて、ただ純粋に「いや、すごいな」と笑っていられたのである。食べ終えたあともしばらく口の中に余韻が残り、次の予定へ向かう足取りまで少し軽くなった。
翌日、私はディズニーランドホテルでも装いを残した。#ootd と書きたくなるような気分だったのは、前日の余韻がまだきれいに続いていたからだと思う。あの圧巻のビジュアル、甘みの重なり、会話の楽しさが一度で終わらず、時間をまたいでじわじわ効いてくる。そして次期のココットももう押さえてある。こうなると楽しみは先へ先へと伸びていく。ひと皿に黙らされ、しっかり心を掴まれ、そのまま次の季節まで待ててしまうのだから、やはり私はカンナに弱い。